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「論考」
韓国の従北朝鮮勢力について

韓基弘(北朝鮮民主化ネットワーク代表)
2013.8.17転載

韓基弘(52)

 1961年、韓国京畿道水原で生まれる。81年に延世大学に入学後、学生運動に参加し民主化運動に身を投じる。1年6月の実刑判決を受け、6カ月の服役を経験した。その後 労働運動オルグを13年間にわたって続けた。現在金永煥氏らと共に、北朝鮮民主化および人権問題に取り組んでいる。
 直近の著書「進歩の影」(2012年3月、時代精神社刊)は、「従北勢力」の歴史的系譜をはじめて明らかにした書として大きな反響を呼んでいる。

 *この論考は、2013年5月30日に行なわれた「2013デイリーNK東京情勢報告会」で発表されたものです。

【本文】

1. 従北とは?

 最近、韓国では従北(従北主義 )という用語が広く使用されている。この用語に対する概念規定は後で行うことにし、最近のいくつかの事例を引用してみる。
 KBSアナウンサーだったジョン・ミホン氏は今年2月、「来年の地方選挙でパク・ウォンスンソウル市長、イ・ジェミョン城南市長、キム・ソンファン蘆原区庁長のような従北性向の地方自治団体長を倒さなければ」と主張した。これに対しセヌリ党のハ・テギョン議員は「彼らは従北ではない」とした。別の事例をもう一つ挙げてみる。時事評論家のビョン・フィジェ氏は統合進歩党の李正姫(イ・ジョンフィ)党代表と彼女の夫のシム・ジェファン弁護士に対しツイッター上で「従北」「主思派」と規定したとし、1審裁判で名誉毀損の疑いがかけられ1,500万ウォンを支払うよう判決を受けた。
 最後の事例として、最近、5.18光州民主化運動33周年を迎え、韓国の一部総合編成チャンネルが脱北者らを証言者として登場させ、「5.18の際、光州に北朝鮮軍の特殊部隊が侵入した」と報道した。これに対し代表的な右翼論客の趙甲済(チョ・ガプチェ)氏は自身の取材経験と多様な証拠を挙げて同事実を否定するや、一部インターネットサイトには「チョ・ガプチェも従北だ」というコメントが多数投稿された。ここまで来ると従北をどのように規定すればいいのか分からなくなる。
 ここ数年間、従北は北朝鮮を追従する勢力以外にも、金大中、盧武鉉政権当時、北朝鮮に対する宥和政策を推進した人物を主に指す用語として使用されてきた。しかし最近、保守勢力の一部では自身の意見と異なる人物を攻撃する用語へとその範囲が拡大している。「従北」の概念規定を明確にしないとこのような混乱状況が発生する。

厳密な意味での従北勢力

 韓国で北朝鮮政権の維持を願う人たちは、その認識と動機をもとに細分化すると次のように分けられる。
 その一、北朝鮮体制の崩壊がもたらす混乱を恐れる人たちである。多くの人がこのような考えを持っている。なかでも北朝鮮体制が崩壊して急激な統一が実現した時、大量の脱北者らが韓国に流入するとして、これに伴う経済的負担に恐怖を感じている人たちがいる。相当数がこの部類に該当する。
 その二、強大国の米国に対抗する北朝鮮に好感を抱く人たちである。特別に親北的な思想を持っているとは言えないが、民族主義的な見地から同族である弱小の北朝鮮が米国のような強大国に対抗しているという点で北朝鮮に共感する人たちである。
 その三、主に学者をはじめとする専門家、言論人、官僚などに多く見られるが、個人的な利害関係のために北朝鮮体制の現状維持を望むケースである。金大中政権と盧武鉉政権時代、対北包容政策を支持した人たちである。こうした人たちは、善意で北朝鮮を支援すれば金正日政権が改革開放に進むものと考え、そうした主張を公開的に行ったり政策化して展開した。彼らは結果的に自身の判断が誤っていたと証明された時、自分たちの名誉や権威に深刻な毀損が生じることを懸念した。現代峨山や平和自動車のように北朝鮮政権のパートナーとなり、対北事業を展開した企業人たちも同様である。
 その四、北朝鮮体制に盲従し韓国政府を転覆させ北朝鮮主導の統一を夢見る勢力である。彼らは過去に比べ現在はその数が顕著に減少しているが、他のいかなる集団よりも組織化されている。そため過小評価してはいけない。彼らは2002年の女子中学生ろうそくデモや、2008年の狂牛病デモ以外にマッカーサー銅像撤去、平沢基地反対闘争などの各種イシューを自らの闘争動力に結びつけ、反米、反政府闘争を行う。筆者はこれを厳密な意味で「従北勢力」と規定する。
 現在の韓国社会は発展水準が同等の他の国と比較し、ダイナミックな面があるとは言うものの、基本的には意見の多様性が尊重される民主主義社会である。したがって「従北」概念は可能な限り厳密に規定され使用されるべきだ。なぜなら「従北」が、北朝鮮住民の現実を糊塗し、北朝鮮住民の自由と人権実現を遮る犯罪行為であるからだ。
 概念を整理すれば、「従北」とは北朝鮮政権の利益、維持、強化を最優先にする行為、北朝鮮主導の統一を追求する行為、そのための意識的、組織的運動を展開する行為として規定することができる。したがって北朝鮮体制の急激な崩壊が現実となり、北朝鮮の実情が全ての人びとに詳細に公開さるようになれば、厳密な意味での「従北勢力」は、韓国社会において、政治的にも道徳的にも存立が困難になる。
 このような意味で、北朝鮮政権の崩壊が韓国の政治、経済、社会など諸般領域で不安定をもたらし、当面は租税負担を加重させるなどという次元で北朝鮮政権維持を思考する相当数の国民と知識人はもちろん、これに立脚して対北包容政策を展開すべきと主張する政治勢力は、従北勢力の範疇から除外されるべきである。このことは真の従北勢力を明確に規定するうえで非常に重要なことである。

2. 従北勢力の活動様式

1) 地下の核心従北勢力

(1) 1960~70年代の勢力

 1960年、4・19革命が体制転覆に発展しなかった状況を目撃した金日成は、1961年の朝鮮労働党第4回大会の事業総括報告で次のように演説した。
 「革命的党が不在で明確な闘争綱領もなく、よって基本的群衆である労働者、農民が抗争に広範囲に参加できなかったため、4月の蜂起は徹底して組織的に展開されなかった。南朝鮮人民は彼らが流した血の代価を米帝の別の手下(民主党を指す-著者注)に奪われることになりました。革命的党の領導がなく、労働者、農民、兵士、大衆の覚醒が不十分だったために南朝鮮の人民は軍部上層のファショ分子による権力奪取を防ぐことができず、民主主義的権利に対する敵の攻撃に反対し効果的な反撃を組織することができませんでした。
 南朝鮮の人民はこの辛い経験から必ず教訓を得なければなりません。南朝鮮の人民は広範な群衆の中に根付く労働者、農民の独自的党を持つべきであり、その合法的地位を勝ち取らなければなりません。南朝鮮で組織されるべき勤労人民の政党は全ての愛国的力量を団結させることで、徹底した反帝国主義的反封建的力量を実現させ、南朝鮮の人民の切迫した要求を解決するために闘争しなければなりません」。
 その後、北朝鮮は韓国内に地下党を建設するための事業を総力的に展開した。その最初の結実が1965年に結成された「統一革命党(統革党)」であった。統革党は、裁判過程でもその後においても北朝鮮との直接的関係について疑問が提起されたことはない。また統革党事件以降、北朝鮮は関連者に対する英雄待遇を行ない対南攻勢を全面的に推進した。統革党が壊滅した後も「再建された」との大々的宣伝を行なった。統革党はその後「救国の声」、最近だと「反帝民戦」などと名称を変えながら対南宣伝機関の役割を果たしている。
 1964年と1974年に話題となった「人民革命党(人革党)」の場合、組織的に北朝鮮との関係を試みたとの証拠はないが、これに参加した個人が北朝鮮と関係を持とうと試みた形跡はあった。「南朝鮮民族解放戦線準備委員会(南民戦)」の場合は、1979年「南民戦」関係者の検挙当時から治安本部と検察は一貫して北朝鮮と関連したスパイ事件という点を明確にした。「南民戦」の裁判記録によると、組織員を日本に派遣し朝鮮総連と接触させた後北朝鮮に入国させ、北朝鮮との具体的な連携を図ったというが、北朝鮮と直接的に繋がる前に組織が検挙された。
 しかしこれら1960~70年代の従北勢力が現在まで組織的に継承されているとの証拠はない。ただし、これらの事件に関係した当事者のうち、その後組織された「汎民連」「韓国進歩連帯」などの各種従北団体で個人的に活動していた事例は多数目撃されている。

(2) 1980年代以降の地下組織勢力

 1999年夏、話題となった「民族民主革命党(民革党)」事件だが、同党は1980年代以降に大学街で自生したいわゆる「主思派(主体思想派)」の元祖といえる金永煥が主導し結成された。この党は旧左翼と関係のない初の大規模新左翼地下党といえる。彼らは1980年代中盤、学生運動圏を掌握し、その後社会運動で主流となったNL(民族解放民主主義革命派)系列運動の思想・理論的、組織的指導部の役割を遂行したといえる。
 民革党は中央委員会傘下に道党格である首都圏委員会、嶺南委員会、全北委員会と三つの地域組織を結成し、党員だけでも百人程度に達した。また民革党が直接管理する地下革命組織だけでも17あり、4百人の組織員が所属していた。傘下には直接的な影響を及ぼせる数千人近くが網羅され、文字通り解放後韓国最大の地下党だった。
 しかし金永煥が主導した80年代中盤の主思派運動(NL)は、金永煥本人の意図に反しその後、運動圏の主流な流れを従北へと帰結させた。このようにして1980年代中盤から1990年代中盤まで「主思派」に影響を受けた親北左派約10万人が社会に「進出」することとなった。
 「民革党」を主導した金永煥と一部の人たちは、北朝鮮の実情を把握した後(金永煥が金日成と面談した後)、北朝鮮こそ民主化の対象であることを悟り、1990年代末からは北朝鮮政権打倒と北朝鮮人民の解放を目標にした「北朝鮮民主化運動」を活発に展開している。
 その一方、ハ・ヨンウク、イ・ソッキをはじめとする人たちは、金永煥が主導した1997年7月の「民革党」自主解散決議を認めず、組織を収拾して地下党を維持させようとしたが1999年に検挙された。事件以降、「民革党」中央や地域で活動した人物が現在まで具体的な地下活動を持続しているとの事実は確認されていない。しかし「民革党」核心管理者の相当数は「民主労働党(民労党-現在の統合進歩党)」などで中心的活動を展開し、彼らが現在の統合進歩党の中心勢力として従北主義の合法化、全面化を試みている。
 この他にも1992年に検挙された「中部地域党」と1994年の「救国前衛」などが存在するが、中部地域党の場合は、北朝鮮の最高位級対南工作員の李善実(イ・ソンシル)が一方で公開的な政党である民衆党指導部に接近しスパイ網構築を試み、他方ではファン・イノを包摂し地下党構築を試みた。ファン・イノはチェ・ホギョンを包摂することで、彼が1990年12月に学院と労働界で活動していた主思派運動家241人を集めて結成した「1995年委員会」 を掌握、組織網を拡大することができた。
 「救国前衛」は「南民戦」事件で無期懲役宣告を受けた前歴のあるアン・ジェグが、1980年代大学街で自生した主思派運動圏出身者を集めて1991年に組織を結成し活動していたが、1994年に検挙された。アン・ジェグは在日朝鮮人の工作指導部と交信しながら在野、労働、大学運動圏の動向を北朝鮮に報告し、現代グループの労働者のデモ現場に介入し、労働運動を背後から操縦しようとした。この他にも学生運動を背後から操縦するため、「全大協同友会」に対する掌握事業を展開した。
 「中部地域党」と「救国前衛」関係者も処罰を受けた後、組織的活動を展開したという証拠はないが、アン・ジェグをはじめ一部は今もなお従北思想から抜け出せず多様な従北活動を展開している。

(3) 2000年以降の地下活動

 2006年10月24日、国家情報院は中国で北朝鮮工作員と接触した容疑(会合・通信など)で「一心会」総責任者のチャン・マイクル(チャン・ミノ)と、組織員の「民主労働党(民労党)」前中央委員のイ・ジョンフン、某学院長のソン・ジョンモクを逮捕した。検察と国家情報院はチャン氏らが2006年3月、在野人士2人とともに中国に出国し、北朝鮮工作員に接触。韓国国内の情報動向及び特定政党の情報を提供し、各種指令と工作金を受け取ったと発表した。
 前中央委員と事務部総長が加担した「民労党」は、反北、反統一の流れを作ろうとする国家情報院の捏造事件だと主張したが、最高裁は「一心会」事件の関連者全員に国家保安法違反などの容疑で有罪を宣告した。
 「一心会」事件の特異な点は、これまで「統革党」、「民革党」など韓国内地下党組織の構築に主眼点を置いてきた北朝鮮が、既存政党の核心部署とソウル市党に侵入し影響力拡大を試みた点である。また海外にサーバーを置き電子メールを活用し、海外で工作員に直接接触するなどして、韓国内情勢動向と「民労党」の主要党職者の身元及び分析資料を提供したことも特徴的だ。
 2011年、関連者らが逮捕され、現在最高裁の最終判決を控えている「旺載山」事件も中央大学82年度入学生の主思派運動圏出身のキム・ドギョンが主導し準備した組織だ。1993年に組織員を北朝鮮に派遣し金日成のスパイ教示を受け組織活動を展開し、2001年に地下党を結成、労働界、学界、在野などに組織を構築しようとした。「旺載山」も政党や国会などを通して情報を入手し、自身の影響力拡大を図るなどの活動を展開した。

2) 公開政党を通じた活動

 本来NL(民族解放民主主義革命派)は北朝鮮に朝鮮労働党という唯一党 があったため、韓国では別途の独自的な政党を作らず、「民主主義民族統一全国連合」のように統一戦線体で活動する方法をとった。それに比べてPD(民衆民主革命派)系列は内部に視点の相違が一部存在したものの、韓国革命の独自性を重視し独自の政党建設に重きを置いた。この違いが、民主労働党建設初期段階でPD出身のノ・フェチャン、チョ・スンウなどが中心的役割を果たした理由である。
 しかしその後NLの一部でも公開政党の民労党に参加し始めた。いつからかは定かではないが、2000年代序盤に民革党事件で拘束されていた主要な関連者らが釈放され、徐々に民労党に参加するようになり2000年代中盤には党権を掌握するようになった。
 民革党事件関連者らの判決文によれば、1990年代後半まで彼らは「選挙と議会演壇の重要性がいくら高まるとしても、これを絶対化し選挙変革と議会主義を主唱するならば、これは変革運動の基本原則を破る修正主義への脱線であり、投降主義の罠に落ちる」と考えていた。
 こうした彼らが合法政党として大量に進出したのには、総じて二つの理由からだと判断される。一つは検挙後の身元が捜査機関に露出し地下活動に障害が生じたたこと、もう一つは韓国の民主化が進み、議会と合法的手段を通した政権掌握の可能性が過去に比べ高まったことである。2012年「4.11総選挙」に最高リーダー格のイ・ソッキ本人が直接比例代表に挑戦し当選したのは、議会闘争を通した政権掌握(野党連帯を通した)を指揮するためのものと思われる。
 しかし昨年の4.11総選挙以降に表面化したように、彼らは「北朝鮮体制、指導者世襲、北朝鮮人権、主体思想」 など北朝鮮の核心的問題について回答を回避するなどの態度を示した。そのことで、韓国国民に従北主義勢力の実体を自らあからさまにするという反面教師の役割をした。
 一方、北朝鮮は2011年、民主労働党を中心に改革民主勢力、進歩勢力の力量を拡大し進歩大統合政党を建設せよと指令を下した。4.11総選挙を前後した時期に柳時敏(ユ・シミン)氏は、イ・ソッキ氏が「統合党建設に対し周辺からの反対が多かったが、これを自分の力で退けた」と語っていたと述べた。偶然の一致なのかは正確に明らかにされたものはないが、結果的に北朝鮮の指令とイ・ソッキ氏らの動きが一致する結果をもたらしている。

3) 公開団体 、サイバー空間などを通じた活動(省略)

3. 従北勢力の現状について

1) 1990年代との比較、歴史的に衰退の傾向

 昨年の4.11総選挙を通して従北勢力であることが明白な人物らが、第3党の統合進歩党を掌握し、国会にも何人かの議員を進出させ、従北勢力が強大な力で韓国社会を掌握していくのではないかとの疑念が台頭した。もちろんこのような点に留意する必要はあるが、筆者は歴史的見地から見る場合、従北勢力が弱体化していると判断する。
 従北勢力は1980年代末から1990年代初頭を絶頂とし、1990年代中盤を過ぎる頃から次第に弱体化し始めた。運動圏の従北核心部の役割を担ってきた民革党が、内部の路線闘争により解散したうえ、残りの残党勢力も1999年の事件で深刻な打撃を受けた。また、個人主義化が進むにつれ学生運動が80年代中盤や90年代初頭に比べその勢いが顕著に弱まり、新しい人材を補充することが困難となった。
 ところが1997年に民主党(金大中)が執権し、北朝鮮に対する包容政策が展開され始める中で、過去の運動に対する評価や反省がないまま、むしろ北朝鮮との公開的な接触が容易になるなどによって活動空間は拡大した。また民主労働党が議席を確保し、現実政治に影響を及ぼすようになり再生の機会を得た。全国民主労働組合総連盟(民労総)、全国教職員労働組合(全教組)に対する影響力確保は、学生運動の衰退を総体的に補完する役割を果たしている。
 とはいえ従北勢力は明らかに弱体化したと評価できる。それは今や従北主義の主張が大衆的アピール効果を失っているためである。過去の従北主義は「民族自主」「反独裁民主化」「祖国統一」「民衆のための献身」などと外形的には崇高な価値を掲げ自身を粉飾することが可能であった。また、現実の軍部政権の抑圧によりこのようなスローガンのアピール力が実体以上に過大評価された面もあった。
 しかし韓国社会が成し遂げた急速な経済発展、民主政府の登場と平和的政権交代など持続的な民主化が進展し、グローバル化が急速に進行するなかで、国民の全般的な意識変化が起こっている。このような国内外環境は彼らが掲げるスローガンが現実にそれほど適合しないという事実を示した。

2) 北朝鮮の失敗

 従北勢力が全活動の指針とする北朝鮮体制の失敗が国民の間で明白な影響力を及ぼしている。従北主義の政治思想的本家は北朝鮮式社会主義と金氏一家の政権である。従北主義は1980年代末の東欧社会主義の崩壊にもかかわらず、北朝鮮は主体思想があるために健在との理論を掲げ存続したが、1990年代中盤、北朝鮮の大飢饉と餓死の現実が表面化することで徐々に弱体化しはじめた。数多くの脱北者が伝える北朝鮮の真実は、従北主義勢力の思想的動揺と組織的離脱の契機となった。
 前出の民革党の分化も北朝鮮に対する立場と態度をめぐる認識から出発しており、従北先陣隊と言える韓国大学総学生会連合(韓総連)も1996年の事態を経て分裂が加速化した。これら全ての共通点は北朝鮮の失敗と関連がある。ここ数年の間、残存従北勢力の内部にも一定の分化の兆しが現れているが、金正日の死去と30歳にも満たない息子金正恩への権力継承が大きな影響を与えているものと判断できる。

3) 統進党事態

 昨年3月末、李正姫元統合進歩党(統進党)代表の、不正な統一候補者予備選、4.11総選挙比例代表候補の予備選不正、 9月の民主労働党勢力とその他の勢力の分党騒動など、統合進歩党が見せた一連の動きにより、一般国民も従北主義政治勢力の本質と形態を把握した。同事態の中心にいた、いわゆる党主流派こそが韓国内の従北主義勢力の核心だったという点から、従北主義勢力が外形的には国会議席をいくつか占めるなど、韓国の政治圏の中心部にまで進出したものの,実際は歴史的没落の前段階に突入したといえる。
 現在国会議員のイ・ソッキは金永煥が主導した民革党のナンバー5の地位にいた人物であり、ハ・ヨンオクが主導した再建民革党のナンバー2に相当する人物である。釈放後は実質的なナンバー1を担ってきた。つまり韓国の従北主義運動の歴史的象徴性を持つ人物と言える。そしてキム・ジェヨン、イ・サンギュ、キム・ミフィ、オ・ビョンユン、キム・ソンドンなどは同組織と直間接的に関係を持っていた人物であり、イ・ジョンフィ代表をはじめとする主要人物もそういった人物である。
 彼らが実行したあらゆる不正、脱法行為は民主主義の名の下に隠された彼らの本性が、実は反民主・非民主に他ならなかったことを如実に証明した。また、従北かどうかを識別するリトマス試験紙といえる北朝鮮体制、3代世襲、主体思想などに関し、自身の明確な立場を隠したことで従北が何なのかを多くの人々に理解させた。
 こうした彼らの活動が、2011年秋、北朝鮮が対南組織に下した「大統合新党を建設せよ」という指令と絶妙にも一致することが明らかとなっている。このことから、現在も彼らが北朝鮮と直接的な連携を持っているかは把握が難しいが、彼らの活動が北朝鮮とは完全に別枠で展開されているとは言い難い。
 結論的に言って、彼らの目標は、旧民労党の限界を乗り越え、ユ・シミンやチョン・ホソンなどの故盧武鉉大統領派の国民参与党系、シム・サンジョンやノ・フェチャン、チョ・スンスなどの進歩新党脱党派、そして民労総を基盤とするチョ・ジュノなどを結集させ、凡「進歩」の名の下に統合進歩党を結成して、4.11総選挙を通して国会に橋頭堡を確保した後、昨年12月の大統領選で民主党との連立政権を樹立することで政権に食い込もうとしたことである。しかし彼らのこうした狙いは、自分たちの正体が国中に露になることによって挫折した。

(一部中見出しは、当研究所による)

以上

 
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